どんぐり倶楽部との出会い

長女が小学校1年生の頃、「どんぐり倶楽部」と出会った。

100マス計算大流行の頃だった。「こんなのに何の意味があるの?!」でしかなかった私は、ネットで家庭教育に関することを調べまくっていた。

そこで出会ったどんぐり倶楽部。意図的に、とてつもなく読みにくいサイトに仕上がってるけど、「見える=分かる」「頭の中は視覚イメージである」「思考(考える)とは視覚イメージを操作すること」という部分で、「探してたのはこれだ」と。

どんぐり俱楽部では…

「思考力」とは、再現した視覚イメージを操作すること。

「理解力」とは、記号(言葉・文字)から視覚イメージを再現すること。

深い「理解力」とは、再現した視覚イメージから、感覚・感情を伴う原形イメージを再現し、感じ味わうこと。

「原形イメージ」は、実体験で感じ味わうことでのみ形作られる。

したがって、感味力を損なう教育は思考力養成には、なり得ない。

「良質の算数文章問題」(通称:どんぐり問題)というのが用意されていて、平たく言うと「文章問題を絵に描いて解く」。徹底反復・高速学習・大量暗記との併用は禁止。消しゴムも禁止。親のヒントも禁止。週に1問とかのペースで、「子どもがやりたがれば」やる。

どんな問題かと言うと…例えば…

年長向け<0MX038> みみずが すきな ながい へやが 6つ あります。 1へやに 4ひきずつの みみずが はいっているとすると みんなで なんびきに なりますか。

この問題を解いた時の次女の作品。

小3向け<3MX056> クジラのマッコウ君の夕飯はプランクトンです。今、赤プランクトンと青プランクトンと緑プランクトンが合計2712匹います。赤プランクトンは青プランクトンの丁度3倍で、青プランクトンは緑プランクトンの丁度半分います。では、赤、青、緑のプランクトンは各々何匹いるのでしょうか。

この問題を解いた時の長女の作品。

高学年向けになると大人でもてこずるような、ややこしい問題が用意されている。例えば、5年生向けだと

今日はカタツムリのムーリー君の誕生日です。今年は大好きな紫陽花(あじさい)の葉2枚と、輝く雨の滴6滴が買える280円の商品券3枚と、同じ紫陽花の葉4枚と輝く雨の滴5滴が買える350円の商品券2枚をもらいました。この商品券の金額からの紫陽花の葉1枚と輝く雨の滴1滴の値段を考えてみましょう。

EX問題とよばれる、難関中学入試や公立高校入試をベースにした問題だと

ペッタくんの学級では、リサイクル活動として大小2種類のペットボトルを集めることにしました。ペッタくんがリサイクルについて調べると、ペットボトルはボトルロケットの材料になり、ボトルロケットを1機作るためには、小さなペットボトルなら25本必要で、大きいペットボトルなら10本必要でいいことが分かりました。また、ペッタくんの学級が集めたペットボトルは大小合わせて205本でした。これはちょうどボトルロケット10機分になりました。では、集めた大小2種類のペットボトルのうちの小さいペットボトルは何本だったのでしょう。

どんぐり倶楽部では、問題が解ける、解けない、は重要視しない。それよりも、絵として再現できるか、描けるか、それを操作できるか、と言う部分を最重要視する。解けなかった問題は「分からん帳」というものに取っておいて、数か月経ってから解きなおしてみる。これは自身の成長の証にもなる。

文字から絵を起こせるか。いや、まず、絵として起こそうとするか。ここが何よりも大事だと思う。大人でも子どもでも、「イメージできるか」「イメージしようとするか」。

算数教育云々の前の、人間の「心」の大前提なんじゃないだろうかと思う。教科書に書かれてある文章だけでなく、人の言葉やメディア、新聞、雑誌、その言葉の意味。それをイメージし、そこに現れる感情は何だろう。

喜び、苦しみ、痛み、切なさ。「文字・言葉」から、そこを置き去りにしていないだろうか。

私は「リンゴ」という言葉から、実体験で知ってるリンゴを思い浮かべられる子、大きさ、手触り、味、歯ごたえ、そういうのを自分の中で再現できる子に育てたかったんだよね。

「猫」という言葉から、私の頭に浮かぶ猫と、子どもの頭に浮かぶ猫は違うかもしれない。種類、感触、重さ、思い出、印象。でもどっちも各々にとっては正しくて、「絶対これ」と相手に押し付けることは出来ない。それが大前提だと思ってる。

「絵」を描かせることにも意味がある。「図」ではなくて、「絵」。時には色んな会話をしながら、「正しい、詳細な絵」よりも「間違っていても良いから、自分の頭の中にある絵」を描きだす。何故ならそうすることで、その絵に「感情」や「愛着」が乗るから。もはやその子が生み出した「生き物」にも近い。

このどんぐり問題を使って、無料の「寺子屋」をしていた時期もある。

吹き出しを描いて絵に会話をさせる子。色んな背景を描き込む子。「お誕生日」という言葉のトリガーから、自分の記憶の中のお誕生日パーティや、絵本で見たお誕生日パーティの様子を思い出して描く子。

中には、「全く何も描けない子」もいる。大半は「正解を出さねば」に強いこだわりがあり、失敗を恐れたり、イメージそのものが出来ない、しようとしない子。

「紫陽花の葉」がわからない、という。わからなくていい。興味があれば調べてみるのもいい。「それを知らない、わからない」がわかれば、それでいい。本物とは全く違う、自由な想像でもいい。「オリジナル紫陽花の葉」でいい。いつか本物を見た時に、「おお!これか!想像と全然違うじゃん(爆)」って強い記憶に残るネタになるかもしれない。

本物を描きたいのなら、知りたい、わかりたい。まずはそこから、になる。

絵を操作する=考える、は「よく見てごらん」の一言でしか後押しできない。アレをこっちに移して、コレをあっちに当てはめてみて…というような操作。本人がよく見て、気づくのを待つ。親は子どもの様子をよく見て、気づく。

「見ること」は「気づくこと」につながる。見ないことには気づかない。でも、一生懸命見てもその時気づかないことなんて山ほどあって、それはそれでいいと思う。タイミング、身の丈の問題。

とはいえ、子育て真っ最中の時はなかなかうまくいかず(^^;

沢山の失敗をしたし、本質的な部分に気が付いたのは、長女が短大生とかその辺にもなった辺りだった。糸山先生に報告すると、「まぁねー、現実的には本当に気づくのは3人目のお子さんの時、みたいな人がほとんどですよ(笑)」と言われた。余裕がね、ないんだよね。子どもが心配で放っておけない、みたいな。

どんぐり倶楽部との出会いは、大きかったなー。糸山先生を招いて、中之島公会堂で大阪講演とかもやったなー。懐かしい。

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