「我慢」と「辛抱」は違う

本当のところは知らないけれど、我が家では「我慢」と「辛抱」という言葉は使い分けている。

「我慢」はダメ。「辛抱」は時に必要。

私の中では、「我慢」は「自分に蓋をすること」。

我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。 強い自己意識から起こす慢心のこと。 四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。 仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。(wikiより)

「自分が我慢すれば…」というのは「自分は強いから」「自分なら耐えられるから」「相手にはそれが出来ないから」という「相手を見下す気持ち」に根付いてる。と思う。

時々、他人を管理しコントロールしようとする人たちを見かける。親が子を、ってパターンはその最たるものなんだけど。 その中でも一番...

もちろん大人なら小さな子どものために我慢することも時には必要になるだろうけど、子どもがある程度大きくなったら「ひとりの人間」として見ることもお互いに必要で、いつまでも子ども扱いして大人がそのまま我慢すると、いつか爆発する。

私の中では、「辛抱」は「『いつか』という希望をもって、辛さを抱えて『待つ』こと」。身の丈に合わない何かを欲しがったり、今は買えないものを買いたくなったり、動くに動けない状態に置かれたり、今は出来ない何かをやりたくなったり。「今は無理だけど、いつかは」と希望をもって待つ。タイミングが来るのを待つ。流れが、潮目が変わるのを待つ。無理なくGoになるのを待つ。全て「辛抱」という言葉で我が家では教えてる。

待つことは時には必要。かといって、何もせず待つのではなく、その間好きな事やってりゃいい。それが出来るようになるために努力して自分を磨くもよし。お金を貯めるもよし。

「その時」が来るか来ないかわからないけど…希望があるだけでちょっと気は楽になるよね。

辛さも悲しみも、人生からは無くならない。それもまた人生の彩りの1つで、それがあるから小さな喜びに「ありがたい」って思える。だから「辛抱」も、あっていいと思う。

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